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イタリア大好き!な働く主婦が綴る日々の雑感、独り言♪                HN 杏

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ペドロ岐部を知っていますか・・・

仲よしのmidoriさんが25日の日記で、ローマ法王の来日と列福式について書かれていました。
TVでもちょっと放送されていた列福式の模様。。。

自分でも忘れていたのですけれど、このブログを始めたころ、実は違うブログというのか覚書というのかそれこそ自己満足の日記(ここもですが)を書いていて、そこに誰に読んで貰うでもなく書いた日記というかメモ・・・
それが今日のタイトルで書いた雑文です。
書いたのは去年の3月18日。。。(少しの間、こことそちらと二足のわらじだったのです)

ここでもこういうことが頻繁に書けたらよいのですけれど、なかなか時間がなくて、ついつい楽しかったことばかりを書いてしまいます。
私のちょっと違う一面も見ていただけたら、と思って、今日は、それをここに再掲載・・・
長いので、無理にとは言いません~>苦笑

                 *************************

先日、新聞を読んでいたら、日本人として約140年ぶりに188名がローマ法王によって、福者(聖人に準ずる存在)に列っせられるという記事が掲載されていた。その中に「ペドロ岐部」の名があって、ああ、まだこの数奇な人生を送った神父は福者として列っせられていなかったのか、と思った。

「ペドロ岐部」という江戸時代初期のカトリック司祭の名を知っている方は、どのくらいいるのだろう。今から20数年前に遠藤周作氏の著作「銃と十字架」を読んで、私も初めて知った、日本人司祭ではあるのだが。

当時の豊後の国(今の大分県)の熱心なキリスト教信者の親の元に生まれ、有馬神学校に学んだ人で、その後の禁教令で日本を追放され、マカオのイエズス会を頼り、その神学校で同宿として修行をした人だ。だが、マカオのイエズス会からも厄介者扱いをされた当時の日本人信者たち。日本へ戻り、他の信者たちと痛みを分かち合うという道もあったが、ペトロ岐部は単身陸路ローマへ向う。

彼の中で、司祭にならなければ、今の同宿の身分では、罪の懺悔を聞くことも、洗礼を授けることもできないという思いが、日本へ帰る道を選ばず、数人の仲間とインドのゴアへ行くことを決心させた。しかしゴアでも司祭への道は開けず、カトリックの総本山であるローマへと岐部は向うこととなる。海路で行くより陸路を選んだ岐部は、ひたすら砂漠をローマを目指し歩く。途中、エルサレムを見たかもしれない。彼がどんな思いで歩いたか、記録が残っていないので、江戸時代の初めに、言葉もおそらくラテン語以外は不自由であった青年の、期待と不安は察するに余りある。

様々な苦労の末にローマへたどり着き、そこでマカオやゴアで受けたものとは違う扱いを受け(はるか日本から単身徒歩でやってきた、ということが当時の法王庁を感動させたらしい)、修行の後、岐部は望み通りに司祭となった。

司祭となった岐部を待つのは、迫害を受けている祖国日本のキリスト教信者たちの元へ戻る、ということ、そしてそれは「死」を意味することでもあった。上司へ帰国を願い出、許可されると岐部は海路で日本へ向う。途中、ゴアへ寄り、シャムへも向い、イエスの教えとキリスト教会の行為のあまりの落差を目の当たりにしながら、ただひたすらイエスの教えのみを信じ、帰れば死が待つ日本へと歩を進めるのだ。

そして、日本の土地を十数年ぶりで踏んだ岐部は、なお一層迫害が酷くなっている祖国の姿に愕然としながらも、九州長崎を拠点に潜伏司祭として、信者の懺悔を聞いたり、励ましたりと活動を開始するのだが、長崎奉行の隠れキリシタン追求の手が激しくなり、長崎を離れ、東北仙台藩へその活動の拠点を移すこととなる。仙台藩はまだキリスト信者に対し、迫害がそれほどではなかったからであるのだが、政宗の死後、状況は変わり、仙台藩も安全からはかけ離れた地となって、ともに活動していたポルロ神父が自首する事態となって、岐部も捕まることとなった。

その後、岐部たちは江戸へ送られ、棄教を迫られるが拒否を続け、当時、これ以上の刑はない、と言われた汚物の入った暗い穴へ、身体を縄できつく巻かれ、逆さに吊るされる「穴吊るし」の刑を受ける。この刑で、かつて日本管区長だったフェレイラ神父も棄教したという過酷な刑である。60歳を超えていたポルロ神父と弍見神父は耐えられず、棄教を役人に告げる。岐部の思いはいかばかりだっただろう。岐部は、盛んに棄教を迫る役人の声に最後までうなずくことなく、死を選んだ。

遠藤周作氏の「銃と十字架」によれば、岐部の心の奥底にあったのは、日本を追放されたあと、マカオから日本へ帰る道を選ばず、一時なりとも祖国の同胞を見捨てる形となったことへの罪の意識、そしてキリスト教がヨーロッパの侵略の手先と信じている江戸幕府と迫害者たち、それらに対し日本人の神父としてイエスの教えは侵略とはまるで関係のないものであることを、身を持って示す使命を感じていたからだとある。

そうなのだろう。岐部は徒歩でローマまで行く間に、自分の信じるイエスの教えとはまるで反対の侵略を行うキリスト教会の姿を見てきたはずだ。その矛盾に苦しんだに違いない。違いないが、誰もその矛盾について答えをくれなかった。くれなかったから、彼は一人でその答えを導こうと戦ったのだ。そして答えが殉教だった。ヨーロッパのキリスト教のためでなく、ただひたすらイエスの教えと日本人のため、己の信じるもののため、ペトロ岐部は死を選んだのだ。

こう書くと、私がいかにもキリスト教信者のようであるけれど、決してクリスチャンではない。たまたま出身校がミッション系の学校で、否応なくキリスト教学だの宗教哲学だのを勉強させられので、多少は知識としてイエスの教えは知っているが、どちらかといえば無宗教の人間なのだ。なのだが、20数年前にこのペドロ岐部という、江戸時代の日本人神父の存在を知って、非常に胸を打たれるものがあった。

そして、そのペドロ岐部が殉教して300年以上たって、ローマ法王によって、あの天正少年使節団の中浦ジュリアンともどもようやく福者に列せられることになった、というニュースに接して彼の数奇な人生に、ようやくキリスト世界が答えを与えてくれたように思えた。

ペドロ岐部が書いた、ラテン語の書簡が残っている。とても美しい文字で、ラテン語が達者であったことがうかがえる。強い心の持ち主だったのか、それとも弱い心を信仰という助けを借りて強くしていたのか、彼のラテン語の文字を見る限り、私は意志の強い人だという印象を持った。強い人だったのだろう。今ごろ、天国でペドロ岐部は、自分の人生が間違いでもなかった、と微笑んでいるだろうか。
by ank-nefertiti | 2008-11-26 23:41 | 考えること