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イタリア大好き!な働く主婦が綴る日々の雑感、独り言♪                HN 杏

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ベートーベンの小径 ハイリゲンシュタット

さて、市立公園から、OTOSANがどうしても行きたい!と言っていた、ウィーンの郊外のある場所へ地下鉄に乗って移動しました。

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こんなに可愛らしい街です。
ベートーベンに縁の街、ハイリゲンシュタット。

この街には、ベートーベンが暮らした家がいくつか、そして思索をしながら歩いた小径があります。

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小川沿いの「ベートーベンの小径」

この小径を歩きながら、ベートーベンは何を思ったのでしょうか・・・

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ベートーベンの遺書の家。
ベートーベンはいくつか遺書を書いていますが、この家で、次第に聴こえなくなる耳と音楽に対する恐怖に震えながら、弟二人に長い遺書を書きました。

「私の病気は不治の病で、治ることはないだろう。また、治すためには非常に高額な治療費が必要だ。そのような高額な治療費を支払うことはとても出来ない。」

「情熱的で活発な気質を持って生まれ、社交を好む性格でさえあったのに、私は早くから人々から独り遠ざかって孤独にすごさねばならなかった。時にこれらすべての障害をのり越えてふるまおうとしても、ああ、私はこの耳のきこえないために、常に二重の、悲しいつらい思いを重ねねばならなかったのだ。それにしても私は人々にむかって--「もっと高い声で話してください。大声で言ってください。私はツンボですから!」ということはどうしてもできなかった。ああ、私には、他人よりも完全でなければならないはずの"ひとつの感覚"、かつてはこの上なく完全な状態で、たしかに私と同じ職業の人々でもほとんど見られないほどの完全さで私が持っていたひとつの感覚の欠陥を人々の前にさらけだすことがどうして私にできようか。--おお!そんなことは私にはできない。--それ故に、おまえたちの仲間入りをしたいと思いながら、私がひとり離れて生活をするのを見ても、私をゆるしておくれ。私の不幸は、そのおかげで私が誤解されてもいるのだから、私にとって二重の意味でつらいのだ。人々との交際や、巧みな会話やお互いの話し合いにくつろぎを見出すなどということは、私には許されていない。ひとりぼっちなのだ。まったくひとりぼっちなのだ。」
 
                       ハイリゲンシュタット 遺書の家 パンフレットより抜粋

この遺書を書いたのは、1802年10月6日。
ベートーベンはまだ32歳でした。
彼の耳が聞こえなくなったのは、交響曲第2番、ピアノソナタ第14番「月光」のあたりから、とされています。
それ以降の、あの有名な「運命」も「英雄」も「田園」も、そして「第九」も、全部耳が聞こえなくなってからの作品。
のだめで使われて一躍有名になってしまった、7番のシンフォニーのあのキラキラとした弾むような明るいメロディが、耳が聞えないという状態で書かれたということが、本当に信じられない、彼の苦悩とは対極にあると言ってもよいような作品ですが、それだけに彼の苦悩はより深かったと想像に難くありません。

そして、自分の作品が大成功を納め、会場にいる聴衆の割れんばかりの拍手も彼には聴こえず、聴衆の方を向かせて初めて自分の作品が聴衆に歓喜をもたらした事を知った、と言われています。

小川沿いのベートーベンが歩いた小径、その小径を歩いて、彼の苦悩と恐怖を思うとき、そしてその恐怖の中から生まれた数々の美しいメロディを思うとき、涙が出ました。

ツッチーが興味深い話をしてくれました。

ベートーベンは、ウィーンでもハイリゲンシュタットでも、ちょくちょく住む家を変えていたのですが、それは作品を盗難から守るためだった、というのです。
当時は著作権などなく、誰が作曲しようと一番最初にその作品を発表したものが勝ちだった、という状況にあったことから、自分の作品が何者かによって盗まれるのを極端に恐れたベートーベンは引越しを繰り返し、その居所をわからなくしていた、のだとか。

当時のウィーンの音楽界の裏側を垣間見るような、話です。

実は、この小径や遺書の家に来るまえに、もう一つ、墓地へ行き、お墓を見ましたが、それは次の記事で・・・
by ank-nefertiti | 2010-02-04 00:43 |